「第1回 演劇と日本近代・演劇創造部会」

早稲田大学演劇博物館・グローバルCOEプログラムの「第1回 演劇と日本近代・演劇創造部会」に参加してきた。知り合いがいたわけでもなく、情報をみて興味を持ったので、てくてくと向かってみた。「土方巽アルトー寺山修司の間に何が起きたのか」というタイトルを冠しての、宇野邦一さんのレクチャーであった。アルトーについては『神の裁きと訣別するために』を読んだことがあるぐらいだ。しかもほとんど理解できなかった覚えがある。アルトー・土方・寺山の関連性とまたその相違性を少しは知識として習得できたか。

そこでは(日本の60/70年代の「アングラ演劇」−引用者注)、整合性をもつものとして日常的に生きられている身体なるものが、実は幼児期からの無意識的・意識的学習によって身体行動のレベルに同化されてきた「制度の束」にすぎず、そのような制度を突き破ったところに、人間存在の深い闇にひそみ蠢く隠れた真実が、荒々しい姿で開示されるだろうという共通の<期待の地平>があった。だからこそ、一方では分節言語という制度の束による阻害から脱却するために、単に「ボディ・ランゲージ」といたもう一つの隠れた制度に陥ることは避けようとしたのであるし、他方では、言うまでもなく、伝統的なバレエやパントマイム――日本でいうなら能の舞や歌舞伎の踊り――といった、すでに文化的制度としてコード化の確立した身体表現に頼ることも拒否したのである。
渡辺守章『演劇的欲望について』p77

この渡辺さんの言葉に乗っかれば、土方・寺山の違いは、「制度の束」を突き破るために、 集団として向かうと、個人として向かうか、という構図になるのではないか。ほかにも、文体の違いとしての消尽とスキゾの対比についても考えた。まあそのうちまとまってくるだろう。濃密な時間であったので、まだまとまらない。