青年団とポツドール

そう書いていて気づいたが、青年団の会話のありかたの完成度も非常に高い。それはもちろん演劇史から見ても当然のこととしてある。だが、そちらには興味があまりひかれない。なぜか。それは「青年団の会話」というものが演劇としてひとつの形態として出来上がっていて、それは「会話」の通俗的演劇形態として出来上がってしまっているからではないか。といっても、「ポツドールの会話」ももちろん、演劇の形式として出来上がってしまった以上、演劇の形態に取り込まれてしまう。演劇という制度のなかに取り込まれてしまう。それへのひとつの回答が、「顔よ」のラスト(いってしまえば夢落ち)に結実したのではないか、と思っているが、再演の「愛の渦」を見逃しているのでなんとも言いようがない。