坂口安吾とか、「なつかしさでいっぱい」

(最近引用ばかりですが、今回はとくに長いです。読みに来てくださっている奇特な方々、ご勘弁ください。下のほうには引用でなくコメントを書いています。)

関井 ……(柄谷さんの「『日本文化史観』論」においての)安吾の「ふるさと」を「他者」とする考え方は、たいへんにインパクトのある斬新な見解だったわけです。このような考え方はそれまでなかった。あったのは、壇一雄さんや奥野健男さんの神話的なロマン主義の理解なんですね。ところが安吾はテキストのなかで、これを切断している。その切断・転倒しているところを本当は考えなければいけないのに、それを自壊させる認識=評価がなかなか出て来なかったんですね。
柄谷 ロマン主義ということでいいますと、現在では、そういう言葉で語られていないものが実はロマン主義的なんですよ。ロマン主義とは、啓蒙主義への否定としてはじまっている。啓蒙主義が合理主義的であるのに対して、そういう理性や主体の優位を否定するのがロマン主義だとしますと、今日はやっている議論は、ほとんどロマン主義的なんです。たとえば、人間の知性が意識できるのはわずかの部分であって、慣習や制度という意識せざる領域に依存しているのだということを、保守派のイデオローグがいいますが、これも典型的にロマン主義的です。十八世紀にエドマンド・バーグがすでにそうでした。それから、ハイデッガー存在論的に見出す「根源的構想力」のようなものもロマン主義的なものです。感性と悟性を根源的に媒介するものですから。
 一九九〇年の五月に、「安吾の会」というのが新潟であって、……その会で、僕より前に講演した筒井康隆ハイデッガー安吾の共通性というようなことを語った。僕はそのあとに、それはまったく違うといいました。たとえば、「堕落」という言葉は、安吾にとってもハイデッガーにとってもキーとなる概念ですが、ハイデッガーの場合、人間が共同存在から離れ私的となることが堕落であり、それはロマン主義的なものです。安後はそうではなかった。堕落とは、自らを突き放すような他者性に直面することです。ハイデッガーはナチであり、安吾自由主義者でした。
 この意味では、安吾は根本的に啓蒙主義的だったと思います。ただし、啓蒙主義自体に対しても啓蒙主義的であるような徹底的な啓蒙主義者でした。彼は、知性の外にある無意識なものの力を認めていましたが、なおそれを解明すべきだと考えていた。僕は、結局こういう姿勢以外はありえないと思っているんです。アドルノのようなマルクス主義者も、ラカンのようなフロイト派もそういう姿勢をつらぬいている。
柄谷行人安吾の可能性」p294-p296(講談社文芸文庫坂口安吾中上健次』より)

なるほどなー。と思いながら、考えることは、最近よんだホフマンの「砂男」のこと。ナタナエルという主人公はロマン主義的なんだろうか。いまいち納得できない。啓蒙主義ロマン主義は交わることがないのか。腑に落ちない点はおそらく、啓蒙主義ロマン主義双方における他人のあり方が単純に理解できていないからだろう。しかしそれでも違和感として残るのは、柄谷が指摘しているように、啓蒙主義自体に対しても啓蒙主義的でありえる啓蒙主義は、ロマン主義に対しても啓蒙主義的でありえるのではないか。というか、ロマン主義者は啓蒙主義者足り得ないのか、という疑問である。


で、柄谷さんの安吾論はなんども読み返しているが、今回特に感じ入ったところといえば、

 …安吾にとって、…単調で果てしのない虚しい空間がふさわしい。が、彼がそれ自体を本当に好んでいたとは思えない。むしろ生来彼が好んでいtのは、そんなぎりぎりの場所でものを考えるということである。そういう単調でインパーソナルな空間のなかで、ひとは裸にさせられる。裸になった人間が問う。何が必然(ネセシティ)であるか、と。荒野のなかで、イエスは神の口から出る言葉だけが必然であると答える。…安吾にあらわれるのは、「必要(ネセシティ)」(欲望)という言葉である。だが、そこに私は安吾の誠実さをみるのである。

 私は自分の病気中の経験から判断して、人間は(私は、という必要はないように思う)もっとも激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを知った。
私は、思うに、孤独感のもっとも激しいものは、意志力を失いつつある時に起り、意志力を失うことは抑制力を失うことでもあって、同時に最も好色になるのではないかと思った。
 最後のギリギリのところで、孤独感と好色が、ただ二つだけ残されて、めざましく併存するということは、人間の孤独感というものが、人間を嫌うことからこずに、人間を愛することから由来していることを語ってくれているように思う。人間を愛すな、といったって、そうはいかない。どの人間かも分らない。たぶん、そうではなくて、ただ人間というものを愛し、そこからはなれることのできないのが人間なのではあるまいか。
 それは人間を嫌ったツモリで山の奥へ遁世したところで断ち切ることのできない性質のものである。自分とのあらゆる現実的なツナガリを、無関心という根柢の上へきずいたツモリで、そして、そうすることによって人間を突き放したツモリでも、そうさせているものが、又、何物であるか、実は自覚し得ざる人間愛、どうしても我々に断ちがたい宿命のアヤツリ糸の仕業ではないと言いきれようか。
 私は、そして、最もめざましい孤独間や絶望感のときに、ただ好色、もっとも適切な言葉で言って、ただ助平になるということについて考えて、結局、肉慾というものは、人間のぬきさしならぬオモチャではないかと思った。(中略)それは、しかし、悲しいオモチャだ。ギリギリの最後のところで、顔を出すオモチャ。宿命的なオモチャであり、ぬきさしならぬオモチャだから。
坂口安吾「我が人生観」より

 人間は孤独であり、しかも本当に孤独であることもできない。極端に孤独になると好色になるという安吾の”発見”が独特なのは、そこに「神と人間」という視点のみから到達したことである。人間と人間の結びつきを社会とよぶならば、安後は社会を自然の側から考えようとする。すると、社会は自然と対立するものではなく、自然が人間に強いるカラクリにほかならない。重要なのは社会を相対化する視点を超越神からではなく自然そのものから導いてきたことであって、そこにはどんなフィクションも介在していない。
 人間は本当に孤独であることができない。それは人間は本当に「落ちきる」ことができないという『堕落論』の言葉と対応している。そして、『堕落論』の基調になっているのは、むしろ悲しげな眼である。
 (続堕落論の引用を略する)
 ……安吾がまぬかれていたのは、神を否定しながら「人間」のなかにそれを内在させたヒューマニズムである。彼には、「あまりに力強い自然」が人間にカラクリを強いる様がみえた。そこで人間がなしうることは、「ただすこしずつ良くなれということ」以外にはない。一挙に「良くなれ」という幻想は、逆に「悪くなる」ことしかもたらさないからである。
 安吾が「無頼派」であり、あらゆる形骸の破壊を主張しながら、政治的な保守派であったことは、同時代者の眼に不審に映ったようである。しかし、彼がつねに見ていたのは、 nature のなかでの human nature であって、その条件の苛酷さが「人間の勝利」を性急に説く者たちと折り合うことを許さなかったのである。

柄谷行人「『日本文化私観』論」p50-p54(講談社文芸文庫坂口安吾中上健次』より)

ここでいわれていることは結局、助平であることを倫理の始まりへと結びつける可能性ではないか。人間は落ちきることはできない。なぜなら人間は弱いからだ。愚かであるから。「人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられな」い。「なにものかのカラクリ」に頼らなければ生きていかれない。「だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正(マサ)しく堕ちきることが必要なのだ。……堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」

他人への欲望。助平であること。そして、他人から突き放される経験。生活を知ることによって、知的に他人を理解することではなく、「他人に突き放される経験」ただそれだけが、そこにのみ<<現実>>が存在するのである。


観念やシンボルに頼り、それらに欲望させる演劇はやりたくない。ただ、目の前の出来事に<突き放される>経験を目指す。まずは稽古場で。そのときに必要とされるのは、余分なものをそぎ落とすこと。徹底的に余分な意味を捨てていくことを恐れないこと。そのうち、溢れてくる。なにか、とてつもないものが。それを、ただ、待つ。中上健次安吾の『白痴』の舞台を「絶対零度の場所」といい、「なつかしさでいっぱいになる」とかいていたようだ。その「なつかしさ」は帰ってきて自己安堵できるような自己同一性を確かにしてくれるようなものではない。自らを解体し、あるいは、そして本当は、自己を根本から救ってくれる<他なる、なにものか>なのである。


つまり、<人間賛歌>である。いつも、そうだ。3mmの作る芝居はいつも、毎度のごとく、飽きもせず、<人間賛歌>ただそれだけを目指している。