稽古が始まっています。

三回ほど稽古をいたしました。ぼちぼち進んでいこうと思います。とりあえずは三本のうち、主に坂口安吾「霓博士の廃頽」からやっております。わりとうまく進んでいるんぢゃないかと、演出家は気楽な部分でそう思っています。今回の目標は「鋭く図式化せよ!」ということです。単純に、漠然とやらない、といってもいいんですけれども。様々な方からいただいたアドバイス(お叱り、ともいう)を、それこそ何倍にも濃くして吸収・消化して、我が物に。

で、太宰治の「駆け込み訴え」。演出プランは完璧だ、もうほぼ演出の大枠できたわー、とか演出家は気楽馬鹿な部分で考えていたようですが、そんなことはなく。稽古が始まってみるとすでに崩壊しました。これは役者の責任ではまったくなく、演出家のプランが甘すぎた、というか、その演出プランは、役者とまったく絡まんぜよ、スパイラルする余地ないぜよ、みたいなことでして、この前の日曜からなにかにつけ代替案というか、演出プランを考えていた。なにかしら思いついては、まぁ思いつき、それこそただの思い付きだったり、または、そんなの作品に本質的ぢゃねぇし駄目、だったりで、浮き沈みしながら、どちらかといえば沈みがちでしたが、ちょっとうまくいくんぢゃないかと、そういうイメージが涌いている。ヒントは、キルケゴール『おそれとおののき』である(ちなみに、遠藤周作の『イエスの誕生』もきっかけになっている)。

 昔ひとりの男があった、彼はまだ年のゆかないころ、神がアブラハムを試惑(こころ)みたまい、アブラハムがその試惑みにたえて、信仰をもちつづけ、思いをかけず息子をふたたびさずかったというあの美わしい物語を聞いていた。年をとってからその同じ物語を読んだとき、驚異の心はますます大きくなるのだった。というのは、少年の正直な単純さのなかで一つに結びついていたものを、人生の経験が分裂させたからであった。年を重ねるにつれて、彼の想いはあの物語に思いをひそめることがますますはげしくなった。彼の感激はいやましにましていった、けれども、この物語は彼にますます理解しにくくなっていった。ついに彼はこの物語のために他のいっさいのことを忘れるにいたった。彼の心には、アブラハムに会いたいというただひとつの願い、自分があのできごとの目撃者であったらというただひとつの憧れがあるばかりであった。
キルケゴール「おそれとおののき」

また、

 ……わたしたちがいま物語っている男はこのできごとについて、このように、そしておなじようなふうに、いろいろと思いめぐらしたのであった。そうしてモリアの山へのさまよいから家に帰り着くたびごとに、彼は疲れはててぐったりとうちたおれた、彼は手をあわせていった、「アブラハムほど偉大な人はありはしなかったのだ、だれが彼を理解しえようか?」と。
キルケゴール「おそれとおののき」

まぁなにがなんだか分らないかもしれないけれど、メモがわりに書いておきたい。


これはそのまま太宰の作品にあてはまるのではないか。あ、そのまま、は言い過ぎですな。
このアイデアがうまくいくような気がしているのは、最初に本読みしたときに、役者が読んでいて気になった台詞(役者がなにかしらすでにある背景をもっている、ように感じた台詞)のメモに、ある。
でも、これでは、ただの心理状態のような演出的示唆しか与えられないなぁ。
もうすこし考えよう。それか、もっと、作品に関係ない振りをして、役者からなにか、飛躍の材料を得るか。


話は変わるが、いまテレビで「さまぁーず、さまぁーず」をやっているが、先週の「さまぁーず、さまぁーず」は面白かった!ほんとにくだらなかったなぁ、ぜひあの番組について語りたい気分になったのだ。え?てか一週間たったの?まずいまずい。