今日はさらに、ただの駄文である。

そこでの時間はただ、その場所でしか出会えず、また、その時間、過ぎ去ってしまう時間、あるいは共有することができる時間、というもののためだけに存在していることが、とっても楽しい。少なくとも、役者は道具ではない。みな(演出家も共演者も、そして観客も)が観たいものは、その時間、その空間が、ただ一回限りのものであり、しかもそれが、とても奇跡的であったと、感じることなのである。役者は舞台上でその時空において、とても自由なのだ。稽古とは、この役者の「とても自由」というものを引き出すことが求められる場である。僕はとてもうまく悲しんでいる役者やとてもうまく笑っている役者をみても幸せではない(そうだ、もう幸せという言葉を使うことをためらう必要はないのかもしれない!なぜってそれは、なぜだ!)。舞台上の出来事に必死に対抗している姿が見たいのである。対抗という言葉はまったく僕の言いたいことをあらわしきっている言葉だとは思われないが、この対抗とは、自由と相反するものではもちろんない。きりきりと真剣に戯れ、真剣に対面している姿こそが、自由なのだ!われわれは涙を流し悲しんでいるか?その顔にある笑顔は笑顔であろうか。うまく悲しむ方法を教えられ、上手に怒る術を教えられ、仲間内でわいわいと楽しみ、たまに喧嘩し、そうして握手するというドラマツルギーを学び!本当の悲しみや、本当の怒りや、本当の友情や、そんなものがあるといっているのではない。「本当」なんてべつにいらない。ただ、うちがわから食い破ってやるのだ。その姿こそが、自由そのものだ。おそらくね。

福引きガラガラ回したら/はずれの白玉転がった/異常に普通のレディメイド/帯に短くたすきに長い/自分の首でも締めますか/右足冥土にひっかけて/左足でこの世をまさぐって/おかしなものになっちゃった/夢と現の連結器/大人と子供の混血児/男と女のハムエッグ/存在自体がパロディか/わたしがわたしをからかって/涙ボロボロ大笑い/一体おまえは何なのさ/「人類の英知が結集した未完成のバベルの塔でございます」
島田雅彦『僕は模造人間』

「帰途」

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんて覚えるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

田村隆一田村隆一詩集』)

酔っ払いにもなれない酔っ払いは、線路の上に胡坐をかくことすらできないで、血の涙も流さない。彼が流す涙に価値は無く、それはただの水ですらなく、汗ですらない。むろん、汗のほうが百倍ましだ。塩分の問題です。狂わんばかりのリアリティは、寝転んでいて手に入らぬものか。役に立たない唄を!

生きている奴は何をしでかすかわからない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。
坂口安吾「教祖の文学」