―夏の終わりに師について考える―

「師」というものがなんなのか。「師」というものについてのある特別な感情の抱き方について自分が思っていることは、役者と共有できていない(すべての役者とと言う意味ではまったくないけれど)。自分が理解できていないことが役者と共有できていない、というのは難しい問題であって、つまり、理解できていないということが、理解できていない、という形でしか表しえない。そのとき、「あんた、なにわかっとるつもりになっとんねん」という突っ込みは可能である。しかし、私は、経験として、理解できなかったことを抱きしめている(抱きしめるっていいことばだからつい使ってしまう。カンサンジュンみたいだ)。ある人物が抱く師に対するパッションを、どうしても共有できなかった。しかし、それは、共有できないから「わからない」ということではなくて、「理解したい」という欲望になっている。完全に酔っ払って書いているので文章が相互理解可能になっていないのは勘弁して欲しい。じゃ何故書くのかしら。うーん、書きたいからです。書いて、酔っ払った自分のなかで落とし前をつけたいからなのです。役者は、恥ずかしさを抱きしめて舞台上に上がって欲しいのです。恥ずかしさって言うのは、舞台に上がるという恥ずかしさなんかじゃなくて、たとえば他人と接していて思い出したくもないようなことを普通にしでかしてしまった経験のことであるのだが、そういうものを一緒くたにして舞台にでてこなかったら、観客になにも信じさせられないだろうと思う。