大雑把、エリアーデへの私見

宗教学者にして小説家のミルチア・エリアーデという方がいる。近代の直線的時間(ユダヤキリスト教的時間)に対して、原始的時間としての「永遠回帰する時間」があったとし、原始的人々は神々の近くに生き、神々の物語をまねる(アーキタイプを繰り返す)ことで、聖なる場所・時間を生きていたと主張する。たとえば、アルカイックな世界観において、男女の結婚というものも、ただ個人的な出来事ではなく、大地と太陽の合一という神話に接続しているのである、というのである。少しばかり前から幾つかの本を読んでいるのだが、どうもしっくりこなかったのが、現在においての(といっても二十世紀中旬であるが)このような主張は、人間の個別性の消去であり、「内的体験」への障壁であり、単なる大きな物語復権ではなかろうかと訝しがっていたが、ミルチア・エリアーデの小説を読んだら以下のようにある。西欧人である主人公が、恋仲にあったインド人女性と引き裂かれ、その女性からの手紙が来た。そのあとから引用する。

 ……読んで分かったのは、マイトレイは苦しみのあまり、骨と肉を備えた現実の人間としての私の姿を見失っているということだ。今、彼女は別のアラン(引用者注:主人公の名)を創り上げてしまった。それは崇高な近寄りがたい神話で、絶えず語り直しては、いよいよ手の届かない非現実の高みへ引き上げているのだ。こうかいている。《どうしてあなたを失うことができましょう、あなたはわたしの太陽であり、その光が地上のこの道でわたしをあたためているのですもの。どうして太陽を忘れられましょう?》別の紙片では私を《太陽、空気、花々》と呼び、《胸に抱いた花束にするキスは、そのままあなたへのキス》、また、《むかしわたしがボワニポールの愛の部屋へ行ったように、あなたがわたしを女にしたから。今あなたは黄金と宝石でできた神としてやって来ます、そうしてわたしはあなたを崇拝します、あなたは私の恋人以上のもの、わたしの太陽、わたしの命ですもの!》
 そのとき私は思った。彼女はなんと異様に神話の奥へ沈潜してしまったことか、私にとって、人間から神へ、恋人から太陽へと、どんどん抽象化されるのはなんと辛いことか。私は夢を見いだしたけれど、それは同じボワニポールのマイトレイに会い、同じ男性として彼女を腕に抱く夢だ。私の夢は、どんなに奇想天外でも、ともに過ごした同じ生活、同じ恋愛を先へ続けて、それを満たし、完成させる夢だ。けれどもマイトレイの神話はすでに私を空想に、観念に変えてしまっていた。私なら欠点も熱情も揃った自分を望むのだけれど、彼女の太陽、花々のうちにその私は見いだせない。
 私はいささか胸を締め付けられる思いで手紙を読んだ。なぜマイトレイは私から離れるのだ?なぜあの世での再会のために忘れてくれと言うのだ?あの世や彼女の神々は私に何の関わりがある?
 私は具体的なもの、直接の生、現存に飢えていた。まさに彼女の肉の記憶、まさに生身の直接のもの、彼女のうちの代替できないものを求めて私は喘いでいた。その霊と肉のマイトレイに私は焦がれ、その彼女に毎日私のフィルムで会っていたのだ。私は絶対に彼女の愛の中で観念と神話に変わって消えたくはなかった。永遠の天上の愛で慰める気はなかった。私の恋は地上で満たされること、生きることを求めていた、天使のカップルとしてではなく……。


ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』p.218,219

近代人エリアーデは宗教的人間を、けっきょくともに生きることができない。だからこそ、神々の物語への「ノスタルジア」という言葉を使うのであろう(ノスタルジアエリアーデが使った文脈とは異なる文脈で使っているので、若干の説明が必要であるが、面倒なので省く、許していただきたい)。ノスタルジアとはなにかを喪失した痛みである。それは事実として、失ったことはないものである、可能性が高い、と自分は思っている。事実として喪失していないけれど、失った痛みを感じ、取り戻したくなるものこそが「ノスタルジア」である。

なにはともあれ、自分のエリアーデの読みは甘かった、ということだ。しかしながら同時に、エリアーデを自分は間違ったあり方で読んでいない、ということの証拠でもあろう。しばらくエリアーデに浸ってみようかしら。次は『ムントゥリャサ通りで』である。