ジョーネン

 ところで情念はしばしば感覚と混同されがちである。しかしこの二つはまったく次元の違うものなのだ。感覚は外界、もしくは体内から発信された刺激を専用の期間で受信する生理的なシステムであり、情念はむしろ言語に近い。言語そのものではないが、その周辺に隈のようにかかる亜言語、もしくは準言語なのだ。伝達内容も感覚とくらべるとはるかに構造的である。もっとも言語の構造ほど体系的ではなく、共同体権の反復を通じて自然発生的に形成されるものなので、同じ文化圏のなかでしか通用しえないという弱みがつきまとう。ただ条件によってはその弱みが強みに転化されることがある。……情念のすべてをナショナリズムと結びつけるのは短絡的過ぎるとしても、ナショナリズムの支点がつねに情念にかかっていることは否定しえない事実だろう。
 あいにく日常という個人的な時間を表現の場にする文学作品には、どうしても情念的要素が混入しがちである。よく文学の翻訳は歩留りよくて八十パーセントだと言われるが、翻訳不可能な残りの二十パーセントは文体に混入している情念のせいかもしれない。もっともさいわいなことに、これまで翻訳小説に接して翻訳だという理由で飽き足らなさを感じた経験は一度もない。すぐれた小説はつねに小説としてすぐれているし、つまらない小説はつねに小説としてつまらないのだ。べつに情念の含有量で作品の価値が左右されるわけではなさそうである。……(とくに第二次大戦後、)ひっそりと私室に籠っていても、国境を通呈して時代に手が届いてしまう。いまさら情念にこだわったりするのだ時代錯誤しか言いようがない。

安部公房「サクラは異端尋問官の勲章」(『死に急ぐ鯨たち』新潮社)