GOEMON

そういえば、先日、徹子の部屋紀里谷和明広末涼子が出演しており、「GOEMON」の話をしていた。番宣の映像を見て、興味を持って、あ、そうか、今日は一日だから千円だ、と気づいて、いそいそと池袋まで出かけてみた。感想を書くのはとても難しい。CGの出来不出来はよくわからないけれど、ひとつの世界観として全体として素晴らしいと思う。衣装にしろメイクにしろ。世界観といってもビジュアルに関する世界観であるが、そのセンスは確かにある。勉強になる。だが一方で、話の構築としてはどうなのか。話の内容がないとは思わない。むしろ、あることが問題なのだ。以下ネタバレであるけれど、大筋としてはこういう話になろう。「社会・権力の抑圧から逃れて自由に生きたい男がいる。かれはその自由と、またその自由を謳歌する勇気を持っているから、権力によって虐げられる旧知の仲間を助けることができる。だが、その行為・行動によって、仲間の家族や知人は返って大きな損害を受ける。彼は悩む。『自由とはなにか』」。大きなテーマとしてはこうで間違いないだろう。このテーマがどのように解決されたのかは非常に難しくて、わたしには、ただ主人公がその社会構造全体に(つまり、まず第一に権力が抑圧的であること、第二にそのから逃れ自由に生きると、返って仲間が苦しむこと)逆上していったとしか見えなかった。いや、「逆上」と考えると、それはとても話の構造として「あり」な気もする。感情まっすぐに生きる体育会系の男が、社会構造のあり方全体に異議申し立てをするあり方として、「逆上するしかない」というドラマツルギーはそれはそれでありだ。というか、どんな人間でも「いまここで」「一度に一気に解決を図る」とすると、「逆上するしかない」ということになろう(本来的に社会構造への異議申し立ては地道に行うしかないからだ)。だが、「逆上するしかない」というドラマツルギーではまったくなく、主人公の最後の闘争がただ映画の勢いのなかで行われたのはいただけない。どういう風な感触を抱えて多くの観客はあのシーンを見るのだろう。「平和を求める純粋な心は素晴らしい」だろうか?しかしながら、最後の主人公の行動は「狂気」だ。「平和を求める純粋な心」というタームが安直に喚起する「ほんわか感」とは程遠い。程遠いはずなのだが、それにしても主人公の行動が「狂気」であるとも描かれず、最後に主人公は死ぬのだが、美しく死ぬのである。「美しく」というのは曲者だ。なんにしろ、考えるべきところが多かった。ビジュアルは本当に勉強になった。ビジュアルブックとか買いたい。