大江健三郎

この一週間で。江國香織『ウエハースの椅子』舞城王太郎阿修羅ガール大江健三郎『われらの時代』を読んだ。『ウエハースの椅子』は、読んでみてほしいと友人から言われたのだった。もうすでによく覚えていないのだが、とにかくよく孤独になる。そしてその孤独さがとても未熟だ。小説として未熟だ。もちろん、「未熟な孤独」というものの切実さはあって、それを否定しているわけではない。これがベストセラー作家なのか、と思うと、すこしげんなりする。『ウエハースの椅子』の世界観と比べてみるといいんじゃないかと思って、『阿修羅ガール』を再読。

 減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
 返せ。
 とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。佐野なんて私にとっては何でもない奴だったのに。好きだと言われた訳でもなく友達でもなく学校が同じだけでクラスもクラブも遊ぶグループも違う佐野明彦なんかと私はどうしてやちゃったんだろう?
 お酒のせい?
 お酒のせいにするのは簡単だけど、でもそれはやっぱり違う。道義的に、とか倫理的に、とかの間違いじゃなくて、単純に本当じゃない。
 本当は、ちょっとやってみたかったからやったのだ。
阿修羅ガール』冒頭より

計算された読点の位置・数。絶妙。『阿修羅ガール』と『ウエハースの椅子』を読んでみて思うのは、『阿修羅ガール』の方がとても「正常」であるという印象である。この「正常」である、とは何に対してか。まずの言葉で言えば、「孤独感に対する作家の世界の広がり・分析のあり方」というようなことであって、もう少し考えたい。そういうつながりで言うと、大江健三郎の『われらの時代』は抜群に素晴らしいのではないか。というか、『われらの時代』をいまのいままで読んでなかった自分への後悔。『阿修羅ガール』も『ウエハースの椅子』も、どちらの「孤独感とその感情とともに生きるあり方」も『われらの時代』のなかにすでに描かれている。すでに描かれているから『われらの時代』が素晴らしい、ということにはならないが、そういうことではなくて、『われらの時代』の筆致のあり方はすごい。ノーベル賞作家に言うことでもないけれど。