稽古稽古

生きている奴は何をしでかすかわからない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。
坂口安吾「教祖の文学」

毎度のように引用させていただく坂口安吾のエッセイの一部である。「思想によって動揺しない見えすぎる目」で他人を見ている限り、「賭」をすることは不可能だ。「何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当たり」であることを、演劇という現場に求めている。

そういえば、(そういえばでもないが)ファウストメフィストも賭をする。これはゲーテファウスト伝説に付け足した新たなファクター(要素)である。いわゆるファウスト伝説では、賭ではなく、契約なのである。十年間だかの期限付きの契約でメフィストファウストのしもべとなることを約束する。ゲーテの『ファウスト』においては、期間はない。ファウストが「時よ止まれ、お前は実に美しい」と、いわぬ限り、メフィストファウストの奴隷であり続けるのである。また、メフィストは神(主)とも賭をしている。ファウストのどこまでも満足しえぬ心を、メフィストは満たし停滞することができるかどうか。この二重の賭によって成り立っているのがゲーテファウスト』なのである。

「賭」とは、おそらくとても演劇的な出来事である。
このことについて思うことを少しばかり書いておきたい気もするけれど、まだ材料が足らないので、保留。

二月が終わりそうだ。

戯曲を材料(だし)にして演劇を作っても仕方が無い。戯曲は他者である。
戯曲という他者に向っていき、ただその前であがき続けるしかない。
その戯曲に執着するならば。したいならば。
その「賭」のなかでやっと少しずつ、他人に近づけるのである。
そうして、自分という矮小な自意識が、食い破られているのに気づく。