『赤と黒』、そして「運命」

スタンダール赤と黒』を読んだ。誤訳問題で少し騒がれた野崎歓訳の光文社古典新訳文庫である。
「読んでない」と声を大にしていうことができないというような気恥ずかしさをつい感じてしまう小説を着々と読んでいこう計画第一弾である。本当のことをいえば、なんども挫折している『カラマーゾフの兄弟』を読むつもりだったのだけれど、第一弾から失敗できまい、という打算的な考えにより、野崎訳の『赤と黒』にした。

感想はといえば、たいへん面白かった。ということしか書けるようなこともない。三島由紀夫にでてくるような「恋をしなければならない」という強迫観念に駆られている青年が、もっと自由に恋愛しているお話である。というように、漠然とした印象。

パリだったなら、ジュリヤンのレナール夫人に対する立場はたちまち簡単なものになっただろう。何しろパリでは、恋愛は小説の申し子である。若い家庭教師とその臆病な愛人は、三、四冊の小説、そしてジムナーズ座の芝居の文句のうちにさえ、自分たちの立場を照らし出すヒントを得たはずだ。小説は彼らに、演じるべき役割を描き出し、従うべきお手本を示しただろう。そしてジュリヤンは、遅かれ早かれ、喜びなど少しも湧かなくとも、たとえいやいやながらであれ、虚栄心からそのお手本に従わざるを得なくなったに違いない。
 南仏ラヴェロンやピレネーの山間の小さな町だったなら、ほんのささいなできごとも燃えるような気候風土のせいで決定的な性格を帯びただろう。だが、この灰色の空の下では、感じやすい心を持っているせいで、金で得られる楽しみを味わってみたくて野心家になった貧しい若者が、心の底から貞淑で、こどものことで頭がいっぱいな、行動のお手本を小説になど決して求めない三十女に毎日あっているだけなのだ。田舎では万事のろのろとしか進まない。なにもかもゆっくりとなされる。そのほうが自然なのである。(上巻pp.79-80)

ここで書かれているような、小説や演劇がひとびとに演じるべき役割を与えるということについて、スタンダールがどのような立場で描いているのかが分からなかった。しかし、それは小説としてよくできていない、ということではまったくなくて、自分が読めていないか、あるいは、立場自体を明確にする必要のない小説であるのかもしれない。なによりそのように、ひとびとに演ずるべき役割を与えることができる力をもったものとして小説や演劇があたりまえのように描かれていて、でもそこで、じゃいま現在どれだけ小説や演劇が力をもっているか?悲しいばかりである、というところにも安易にはいけない。おそらく、この小説の中では、「(演ずる)役割を与える力」についてとても繊細に描いているからこそ、一読ではそのあたりのことが見通せないのだ。

ドン・キホーテを演じようと思ってドン・キホーテを演じられるならよい。しかし、ナポレオンを演じているつもりが、ドン・キホーテになっている。そんなこともある。そうして、かの時代のナポレオンといまの時代のナポレオンは違う。演じ方も、与えられる役割も違おう。

赤と黒』の主人公ジュリヤンはなぜ死んだのか、死なねばならなかったのか、ここまで書いてその疑問が頭をもたげてくる。

(以下は、メモ)
レナール夫人はこのうえない心の喜びに気持ちを昂ぶらせていた。早くから恋を知ったおませな娘であれば、恋の悩みに慣れてしまう。本物の情熱を抱く年頃には、新鮮さの魅力を感じられなくなっている。レナール夫人は決して小説を読んだことがなかったから、自分の心の動きの何もかもが目新しかった。