「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

いまさら感は否めないなか、青山真治監督作品「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」をDVDで観る。よかった。書かれてしまったものたちと、撮られてしまったものたちと、語られてしまったものたち。残骸はオモカゲ。撮ったものではなくて、撮られてしまったものたちの映画だったのだと、思う。

「最後の会話で、私は絶望しました。」「二人が交わったように見えるのは、書かれた文字だからで、最後にその役得にすがるなんて、何のためにこれまでの手紙は書かれてしまい、読まれてしまったのでしょう。文字で交わりたくて、でもどれほど近づいても無理で、それでも交わってみようとするから、あなたは書き始めてしまったのではないですか。だから私は読んでしまい、こんなに離れているのにあなたと交わっているような奇跡的な気持ちを抱いたのです。それなのに、最後に私は突き放されました。私とあなたの思いは通じてしなかったのです。というより、読み取る努力をあなたは放棄したのです。あなたがこのシリーズを始めるまで、私が手紙を書き続けてきたのは、そんな文字の上の交わりに変わってしまうのを拒否したいからでした。私は書くことで、あなたと私の間がずれていくことに敏感でいようとしたわけです。書くことで、文字に還元されることを乗り越えようとしたのです。ここまで説明するなんて、私も何かを放棄したのでしょうか。そんなことはないと思っています。それでも、手紙を書くことであなたに会いたい。」
 真楠は「読まずに嘆くことができるでしょうか」と書いた不乱子の手紙を目にしたときの違和感と、その後の隠微な快感を思い出した。そして、いま一度、文字を通じながら文字にならない不乱子まで含めて、不乱子そのものになりたい、あの作家の名前になることで本当は不乱子になりたい、と強く思い、最後の手紙を書き始めた。
星野智幸『最後の吐息』