雑感(別名、どうにも先に進んでいない)

積極的に曲解してみようと思う。

"シリアスを確立しようとするものの前にお笑いがたちふさがっている"

これは橋本治『宗教なんてこわくない!』p114一行目に出てくるセンテンスである。本の内容は置いておいて、この言葉だけを取り上げてみたい。

たとえば、ベタであることに対しての拒否反応が自分の中にはいま、存在している。それは、身体的拒否反応としてだ。ここでひとつ保留が必要で、これは「ベタである」こと自体に対するものではなくて、ある表現が「ベタになってしまっている」という状態に対しての拒否反応である。「ベタ」への距離のとり方がうまければ、「ベタ」にたいして、ゾクゾクしてしまう、というような拒否反応は起きない。
そのような意識があって、自分は「似非ポップ」を自称してみた。「ベタ」への絶妙な距離感。
「愛してる」「わたしもよ」。みたいなことをシリアスに確立しようとすると、お笑いが立ちふさがる。お笑い、を無理やりにも拒否反応と置き換えてみる。ゾクゾクっと寒気が走る。だから、たとえばこれを、宇宙人同士の会話にしてみる。「愛してる」「わたしもよ」。こうすると、ひとつの光明が見えてくる。地上3mmはそのような流れの中で作品を作ってきた。つもりである。第三回公演における<トイレの国>もそのひとつである。
だが、ここで、このような作品作りはどこへ向かうのか。と考えてみると、なんだかお先真っ暗なような気がする。"シリアスを確立しようとするものの前にお笑いがたちふさがっている"であるからして、シリアスを確立しようとしてなんかいませんよ、という土壌をつくりにかかり(=宇宙人やトイレの精を登場させ)、シリアスに対してある距離感をもってやっていますよ、とわざわざお客さんに表明しながら「シリアス」をやることで、立ちふさがっているお笑いを「回避」する。なんだか非常に面倒くさいし煩雑だし、回数を重ねるごとに構造だけがどんどん進化していって(進化していくしかなく)もっと煩雑になり、しかも、それはタダの逃げ(なにから?)ではないか。と思ったりしている。

すでにあらゆる手法もモチーフも試しつくされ、磨り減らされてしまった時代に生を享け、人一倍熱っぽい抒情的な魂を持ちながら、それをそのまま表白したらたちまち陳腐なロマン主義の紋切り型に堕しかねないといった宿命を正面から引き受けて、ついに強靭な方法論と濃密な官能性とを結婚させる革新的な音楽を書きあげたシェーンベルクは、しかし、そのことによって同時に、今世紀のあらゆる詩人と作曲家の不倖を準備してしまったと言える。
松浦寿輝「現代性の黎明へ」『青の奇跡』より

さて、別にわたしは不幸ではない。こんなテキトーな文章が発表できる環境があって、飯も食えて、思い立ちさえすれば、金さえあれば明日にでも海外にいけるだろう。じゃ、そもそもなにが「シリアス」なのか。はて。もっと簡単に考えよう。

(「シリアス」になれないことが「シリアス」だ。などという言葉遊びはやめにしたい。それはきっと、センチメンタルだということに過ぎない。だけれども、センチメンタルにならなきゃいられない人がいて、そういうひとたちを描きたいと思ったときに、「なーんだ、ただのおセンチじゃん」などと言われないためにどのような手法をとるのか、と、考えてみると、話はまた最初に戻ってしまうのだ。と、気づく。が、これが実は地上3mmが似非ポップを自称している、いた、積極的な動機であるのだ。)

生きている奴は何をしでかすかわからない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。
坂口安吾「教祖の文学」