「帰途」

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんて覚えるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

田村隆一田村隆一詩集』)

 両手を開いて顔の前にかざす。そのかたちのまま両の掌の間を狭めてゆくとまず親指の先同士が触れ合うだろう。さらに近づけてゆくと今度はその親指の先を支点として、鹿の角のように開いた右手の四本の指と左手の四本の指がわずかに内側に回転し、腕の両肘はその逆に外に突き出して、やがて人差し指も触れ合うことになる。それぞれの掌の親指から人差し指にかけての弧が二つ合体して、木の葉のかたちが現出するのだ。そしてそのままさらにぎゅっと力を加えると、人差し指同士は先から根元までびったりくっていて、もっと小さな木の葉のかたちの空洞が残ることになる。両の掌で作る小さな木の葉のかたち。倉沢は縁側に胡座をかいて意味もなくそんな仕草を繰り返しながら隣家の庭の椚の木立の方を所在なく眺めやっていたが、もうあたりが暗くなりかけているのにふと気づき、一人でいると一日があっという間に終ってしまうのはなぜだろうと思った。もう秋に入っていつの間にかずいぶん日が短くなりはじめているのかもしれない。朝からずっと雨が降りつづいていずれにしても空は一日中暗いままだったが、椚の木立の葉むらが一本一本はっきりとは見分けられなくなっているこの暗さはもう夕暮れのものだった。
(略)
B…は来るのか来ないのか。結局それももう他人事のようにしか思われなかった。雨は勢いを弛めずに降りつづいていて草や石や排気ガスや人の息や汗やいろいろなものの匂いがつい間近から倉沢の鼻孔に迫ってくるようだった。両手の指の力を弛め、ひどく緩慢な動作で手と手を離してゆきいかがわしい印を解いてゆきながら、木の葉とも女陰ともつかぬうつろな形態を消滅させてゆきながら、結局自分は子供の頃からずっとこんなことだけをやって生きてきたのだと倉沢は思った。

松浦寿輝『もののたはむれ』「その五 夕占」)


自分のことなのに、他人の言葉のほうがリアリティをもつ。自分には自分を表す自分の言葉がギャグにしか思われない。ような状態。というもの。